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"努力している時の自分"だけを切り取りすぎてきたかもしれない

最近、自分が努力している時だけを、いい感じに切り取りすぎているのではないかと思った。

努力と意識していな人も、自分は努力をしていると自覚している人も、なにを持って努力したという、ある程度の努力の定義のような軸を自分のなかで持っているだろう。

その定義において努力が達成されたとき、それはそれはすがすがしい。1人で性行為をするより気持ちい感覚に襲われる。

でも振り返ってみると、それは週にあなたはそれを週に何回味わっているだろうか。

もしかしたら、金曜はそれを味わっていないかもしれないし、日曜は努力をしなくてもいいと考えているかもしれない。寝不足だから今日はいいやと不定期で努力していないときもあるだろう。

つまり、それはまったく努力していないということになるかもしれない。なぜならたまに頑張ることなんて誰にもできるから。

知らず知らずのうちに、たまに頑張るのが努力だと習慣になっているかもしれない。そこは改めて意識して注意する必要がある。

それとは別で、もう一点問題がある。

それはもはや、努力はあたりまえで、問題はその努力に対して、何時間、何分、何秒単位で努力をできる人間か、という話。

ここまで行ったら、超人の話ではないかと疑う人もいるが、そんな努力をしている人が現に存在するし、その人からみたあなたはただただ普通に生きている人間になる。

その瞬間にあなたの努力はまったく努力でなくなるどころか、怠惰にまで変貌する。これは恐ろしい事実。

つまり、ぼくらがいましなくてはいけない努力とは、自分のなかで努力の定義を決定するのではなく、世界の人間を意識して時間/分/秒単位でなにかに惜しまなくてはいけない。それがつまり努力と言われるものとなるだろう。

これを聞くと、正直きつい感じがする。ただそう思うのはそれが本当の努力だからであって、いままでの自分はただ生きていたのを認めざるを得なくなる。

単に、努力している時の時のを切り取っていたに過ぎないという話でした。

ということで、もっと楽しく、細かく努力していきましょう。