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究極的な目標を失った時、人は絶望を味わうのかもしれない

毎日ただ働いている。働きたくもないし、誰にでもできるような、10年後は人工知能に奪われるかもしれないような仕事。お金が入ってくれば仕事なんて辞めるし、何一つ楽しくない、挙句の果てに職場環境も悪く、心を開いて話せる人など職場にはいない。ただ心のなかで文句言って、1日を乗り切る。家に帰ればお酒をのみ、何も考えずにただただテレビを見る。たまに笑かされるが、ふと我に返り、次の日の仕事を思い出し、何か嫌な気持ちに襲われる。

はい、私ではないです。ただ、こんな状況の方も世界、日本にはいると思います。

つまり、何が言いたいのか。

これって、絶望ですよね?ってことが言いたい。

ひとつひとつ分解して、例えば働きたくもないのにただ働いているケース。これだけじゃ絶望とはいえない。

上の場合は、もしかしたら家族を養うために仕事をしているかもしれないし、自分の家をもつための貯金を貯めるために仕事をしているかもしれない。

冒頭の文が示すのは、ただひとつで、『究極的な目標』を完全に見失っていること。

ものすごく広いフィールド目標を捉えてみると、それはどう死ぬのか、だと思う。もちろん幸せに死にたいではないですか。

では自分の理想の死に方を目指すことを、超究極とすると、その次に来るのが究極的な目標。簡単にいえば夢みたいなもの。

起業して、自分の会社を持ち、フェラーリに乗って、人生を楽しむ。これもまた究極的な目標です。

その究極的な目標を達成するためにでてくるのが、複数の中間の目標。そして、仕事はあくまで中間の目標です。仕事のなかででてくるプロジェクト、タスク、キャリア、などは最下部の目標。

なんてことを、超究極的な目標から細分化すると、ふむふむって感じですが、意外と多くの人が見失いがち。

仕事が究極的な目標になっていることがあったりす。これは別に悪い良いの話ではないですが、強い弱いの話ではある。

仕事が目標の人はもしかしたら、仕事がめっちゃできる人かもしれない。もしかしたら幸せかもしれない。

では究極的な目標を達成するために仕事を全力でやっている人はどうだろうか。結果は明らかで、モチベーション・集中力・忍耐力など、すべてにおいて長期的に比較したときには、究極的な目標がない人に負けることはないだろう。

そして究極的な目標はもちろん簡単に叶うはずもなく、もしかしたらそもそも叶えられないがゆえの究極的な目標なのかもしれない。

では逆に本来中間に位置する目標を指標に生きて、究極的な目標を持たない人はどうなのか。きっとその中間に位置する目標を失った時、その人は絶望をあじわうことになる。

なぜ生きているのか、なぜここまで頑張っているのか、意味があるのか。

なにかを達成するためには大中小の目標設定がある。間違えても小中だけで目標を埋め尽くしてはいけない。すべての小中目標は、たった1つだけの究極的な目標に属することを認識する必要がある。

究極的な目標がないのなら、僕らはそれを探し続ける必要があるし、それすらが究極的な目標にもなりえる。

おすすめは、自分が心の底から楽しいと思えることをやることだ。